『チェルノブイリの祈り』 スベトラーナ・アレクシエービッチ著

 中高生の皆さんには「チェルノブイリ」は、もしかしたらなじみのない地名かもしれません。

 私は中学3年生のとき、文化祭で壁新聞の担当になり、原発をテーマにしました。「4番目の恐怖」という本を読んで、衝撃的な内容に驚いたのを覚えています。4番目、というのは、ウィンズケール、スリーマイル島、チェルノブイリ、と大きな原発事故がそれまでに3つ起きていて、4番目は日本で起こる、という意味です。当時、チェルノブイリの事故を受け、日本では反原発の運動が大変活発でした。中学に教育実習に来られた社会の先生が自分のクラスの担任になり、反原発の運動をしていることを授業やホームルームの時間に話してくださったのも、原発に関心をもつきっかけになっていたのかもしれません。たくさんの本にあたって調べたのを覚えています。今のようにインターネットなどない時代ですので、調べるとなれば、本で調べるしかありませんでした。

 今回紹介の「チェルノブイリの祈り」は、当時私が調べる際にあたった本とは、もしかすると対極にある内容かもしれません。壁新聞にした記事の内容は、科学的な観点から放射能が体に及ぼす影響であったり、原発事故でどれほどの人が犠牲になったかなど、関心は全体的な「大きな物語」であったように思います。この本では、徹底的に“個”にこだわり、原発事故が起こった時、その地に住んでいた人や、事故後にいろんな事情でその地に移ってきた人たちの想いや心情といった「小さな物語」を連ねたものです。

 著者が取材した人たちはいろいろな境遇、立場、年齢の人たちで、彼らの独白のような形で数ページずつ、時には数行ずつ、思いがつづられています。例えば、内戦で民族間の殺し合いから逃れるために5人の子供を連れてチェルノブイリに来た(来ざるをえなかった)母親は、ある人から面と向かって、ペストやコレラがはやっている土地でも子どもをつれてきますか?と問われ、ペストやコレラだったら・・・、と思いながらも、「ここでいわれているような(放射能の)恐怖を私は知らないのです。私の記憶にはありませんから。」と独白します。これを、科学的無知だと非難することはできないでしょう。彼女は放射能のこともある程度わかったうえで、深い葛藤の中で、このように今の生活を正当化せざるをえない状況に追い込まれている、といえるかもしれません。著者は、権力側を非難したり、誰かを裁くのではなく、ただひたすらに彼らの声を拾い上げています。

 人が人として人間らしく生きていくということを考えるとき、こうした個人個人の生活に根差した「小さな物語」を綴る言葉には、科学的知見をも凌駕する力があると感じました。