育休

「薄靄の中、坂道を何かが転がっているのが見えた。卵だ。なぜだかわからないが、突如、その卵を守らなければならない、という使命感に駆られた。しかし、卵はどんどんと加速していて、うまく止める方法がわからない。早く何とかせねば、と手をこまねいていると、卵の進む先に壁が見えた。このままでは、卵は割れてしまう。だが、どうしたらいいのかわからない、どうしよう、どうしよう、あっ、ぶつかる!」

 いつもこの場面で目が覚めた。現在高校1年生になる息子が0歳の時に、約1年間の育休をとり、その時に、何度も見た夢だ。妻はフルタイムで働いていたので、いつも私と赤ん坊は別室で2人で寝ていた。普段から、赤ん坊の命を預かっているなどと深刻に考えたことはなかったつもりなのだが、こんな夢を何度も見たというのは、無意識にそうしたプレッシャーを感じていたからなのかもしれない。以前、誰か(牧師さんだったか)がこんなことを言っていた。

「女性は睡眠を細切れでとることができ、男性にはそれができない、だから夜中に赤ちゃんが泣いて、真っ先に起きるのは母親だ、という人がいて私もそうかな思っていたけれども、あれは嘘だ。あるとき、私と赤ん坊の二人で寝ていて、夜中に赤ん坊が泣いたとき、瞬時に目を覚ました。妻も一緒に寝ているときには、隣で赤ん坊が泣いても全く気づきさえしなかった私が、です。赤ん坊の面倒を見るという責任を担うことができないのではなく、担おうとしていなかっただけなのだと、その時、わかりました。」

 保健所に3か月の定期健診に行ったとき、こんなことがあった。調査票の項目に、「昼間赤ちゃんの世話をしているのは誰ですか」というものがあり、選択肢が「1.母親 2.祖母 3.保育所 4.その他」で、父親という選択肢はなく、分類上、私は、「4.その他」であった。実際、統計的に少ないのだろうから私は「その他」であっても別に何とも思わないのだが、裏を返せば、父親が育児にいかに参加していないかということの表れでもあったと思う。その頃は、イクメンという言葉もまだなかったぐらいなので、それから15年たった今とは多少異なるかもしれないが、それでもこの15年で状況が劇的に変わったとまでは思えない。子どもの成長を間近で見られるという、これほどまでに面白く(!)、充実感を得られる(もちろんその分だけの大変さもあるのだが)ことは人生で他にはそうそうないだろうと思うだけに、もったいないなあと、感じてしまう。もちろんこれは、育休を取りたくてもとれない父親はたくさんいるだろうから、個人だけの問題ではなく、むしろ社会の問題である、ということですが。

 手前味噌になりますが、育休中の1年間、育児の様子をブログに綴っていました。今もまだ残っているようなので、もしよかったら覘いてみて下さい。ブログのタイトル「Wantaim Pikinini」で検索したら出てきます。

「82年生まれ、キム・ジヨン」 チョ・ナムジュ 著

 主人公のジヨン氏が、精神に異常をきたし、訪れた精神科の医師の記録という形で物語が進むのだが、語られるジヨン氏の半生に、(著者の住む)韓国のみならず多くの国で見られる、女性の生きづらさを描きこんでいる。

例えば、ジヨン氏が精神に異常をきたす直接の引き金になったのは、次のような出来事による。近くの公園にベビーカーを押して散歩に出かけたとき、子供がベビーカーの中で眠ってしまったので、コーヒーを一杯買って公園のベンチで一息ついているときに、近くの会社員の男性が「俺も旦那の稼ぎでコーヒー飲んでぶらぶらしたいよなあ・・・ママ虫(育児をろくにせず遊びまわる、害虫のような母親という意味のネットスラング)もいいご身分だよな・・・」という言葉を聞いてしまった、というものである。もちろん、この出来事は引き金でしかなく、ジヨン氏が幼少のころから受けてきた不平等について、人によってはこれくらいのこと、というかもしれないようなことを淡々と、そしてこれでもか、というぐらいに書き連ねている。

本書は小説のジャンルに入るのだとは思うのだが、例えば男女の出生比率(1990年には男児の出生が女児の1.16倍!男児が望まれ、女児の堕胎が行われたということ)といった統計データが随所に現れるなどルポタージュのようでもある。作家の川上未映子さんは「この小説は、女性が社会で生きていると遭遇する典型的な事例が積み上げられていて、しかもそれを何もわかっていないポンコツ男性精神科医が単純化して記述している。・・・男性によって『カタログ化』された女性の半生だけれども、私たちはそれでも『これが私の物語である』と思ってしまう」と述べているように、多くの女性たちが日々の生活で、一見些細なことと思ってやり過ごしてきたような事にも焦点を当て、それらを社会問題として提起しているように思われる。

私自身は本書を読んで、そうだったのか、とか、考えてみればそれはそうだよな、といった気づきが数多くあった。ジヨン氏の視点を疑似的に体験することで、ジェンダーにまつわる問題を考える際の思考の補助線を得られるのではないかと思います。