私は中学時代、同級生に2人の自閉症の生徒がいた。そのうちの一人の“栄ちゃん”とは、中学2年、3年と同じクラスだった。
普段の授業は、特別学級という扱いで別の教室にいたが、例えば、毎日の弁当の時間などには、彼らは自分のクラスにいって、みんなと一緒に食べた。弁当の時間は、各班6,7人ごとに机をくっつけて食べていたので、栄ちゃんは毎日、各班に順番に入っていった。栄ちゃんは、こちらの言うことはおおむね理解できるが、自分の意思を言葉で表現することはかろうじてできる、という感じであったので、こちらから話しかけはするものの会話のキャッチボールはなかなかできず、したがって、栄ちゃんと会話が弾むということはなかった。しかし、一方で、栄ちゃんが入っている班で、彼をほったらかしにして、他のメンバーで勝手に会話が盛り上がる、ということもなかった。そうした形で、栄ちゃんの存在を尊重して、班に彼を受け入れていたのだと思う。
中学3年の修学旅行では、班ごとの自由行動の時間が半日あり、栄ちゃんは私と同じ班になった。どういう経緯で栄ちゃんが入る班を決めたか全く覚えていないのだが、それぐらい当たり前のように班のメンバーに栄ちゃんが入ったのかなとも思う。私が班長だったので、何かあってはいけないと、多少なりとも責任感は感じていたが、だからと言って「特別扱い」のような接し方も何か違うような気がして、栄ちゃんがいるからと取り立てて特別なことをした覚えもない。
学校において障がいのある生徒も全く分けずにすべての授業や行事を一緒にするべきだ、というやや急進的とも思えるような考え方がある。中学で教科の授業を一緒に受けても、例えば、栄ちゃんは全く理解できなかったのではないかと思う。教科内容を学ぶ、という意味では、有効ではないだろう。しかし、ポイントは、同じ空間、同じ時間を共有することでの相互作用、学び(もちろん相互にとっての)こそが重要であるということなのかなと思う。私はこれまで障がい者施設や作業所にいくつも行ったことがあるが、どれもたいてい町から少し離れた、人の目につきにくい場所にあった。これが意図的であるのかどうかは定かではないが、少なくとも、私たちの日常から障がい者は遠ざけられている現実は間違いなく存在すると思う。障害のある生徒も同じ教室で、という考えは、そうした現実に対するアンチテーゼと言えるかもしれない。
私は、高校進学後、普段の生活の中では、栄ちゃんのような自閉症の方や、障がいを持つ方と交流を持つ機会はかなり少なくなってしまった。しかし、こうしたことを考える際、現在においても、自分自身の中学時代の経験が原点になっているように思う。
『無敵のハンディキャップ』 障害者が「プロレスラー」になった日 北島 行徳 著
「・・・ぼくは、うたがへたなのも、しばいがへたなのも、じぶんでは、わかっては、いるのですね。でも、おきゃくさんは、はくしゅをくれます。なにか、どうじょうの、はくしゅみたいで、いやなのですね」
障がい者は、清く正しく、そして、(健常者に対して)感動を与える存在であるべき、といういかにもありがちなステレオタイプに、真っ向から挑んだのがこの障がい者プロレスであり、本書である。
障がい者が血まみれになって、そして不自由な体をさらして、闘う。初めは障がい者同士の対戦だったが、途中からは障がい者と健常者も闘い、そして時には健常者レスラーが障がい者レスラーを一方的に痛めつける(即ち、一般社会にもみられる構造)という形にもなるのだが、この障がい者プロレスを行う意味は何なのだろうかと、みんなが自問自答を繰り返し、そして著者は観客に不快感を抱かせることも目的の一つと考えながら、プロレスを見た観客の「障がい者の闘う姿に感動しました」という、これまた予定調和的な感想に、さらに悩みを深め、といった具合に、試行錯誤を繰り返しながら、このイベントが育っていく様子が描かれている。
しかし、このプロレスというイベントを通して描かれる障がい者たちの日常こそが本書の見どころといってもいいと思う。プロレスでは、脚光を浴びて「強い」レスラーも、ひとたび日常に戻ると、職場で仕事が遅いとかのろま、とか言われて、本当につらい毎日を送っている。そうした状況からいろんな人たちにお金を借り酒に溺れてしまう者もいる。また、ボランティアに来た大学生に優しくされて、その人に対しストーカーに近い行為に及んでしまう者もいたりと、彼らの負の側面も描いている。著者はそうした悩みや仕事のグチを毎日のように聞いたり、これまで何年も相談にも乗ってお互いのことをよく知っている間柄であるからこそ、リング上では、決して手を緩めずに真剣に向かってくる相手に対して勝負ができるのだという。
きれいごとではない、障がい者達のありのままの姿を描いていて、そして、私たちに問題を突きつけてくる好書です。